東京都の多摩川から歩いて10分くらい、東京競馬場より3駅先の2DKの団地で生まれ育つ。父は空手家でよくお弟子さんと稽古をして朝方まで家で飲んでいた。理系分野と健康が好きなようで、たまに魔女が作る毒のような鍋を長時間煮ており「何が入っているのか」と聞くとコラーゲンとEPAとDHAなどとの返答がかえってきた。私は素材が知りたかった。記憶を辿り分析すると、私が幼女だった頃にした父への構ってというアプローチを繰り返し邪険にされた事から、小学校3年生くらいの頃には先に嫌う事を選択していた。母は多少気を狂わせながら父の稽古後の宴会の為に少なくとも週1回はご馳走を作り、その他の家事と子育てをしながら父の卸売り業の仕事を手伝うという生活を続け、倒産などを経てしまいには経営の主導権を握るようになった。母の競争心と意地のお陰もあり、私は習い事をたくさんさせてもらった。
私は幼児の頃からカワイ音楽教室に通っていた。帰りに毎週幼馴染の友人とマクドナルドに行くのが楽しみだった。ケチャップをポテトにつけて「マッチ」と言って遊んだ。初めてダブルチーズバーガーやビッグマックを頼んだ時には何かとてつもなく大きい事を仕出かしたようで友人と二人でドキドキした。その後5歳くらいでピアノ、7歳くらいでバイオリンを習い始めた。
成長過程において家庭や社会の中で折々触れる「当たり前の常識」に対して強い嫌悪感と拒絶感を示し、中学に入る頃には厨二病を確立し、中学2年頃からロックミュージシャンとBL漫画・小説に救いを求めるようになった。BLというものは、女性である事を含めた自己否定を持ったまま愛される事への渇望が満たされるようである。
吉井和哉氏のような美しくかっこいいロッカーに憧れ、仲間を探してバンドを組み、ドラムを担当し文化祭で発表した。当時は五線譜を読んで演奏する事しか知らなかったため、五線譜で書かれたバンドスコアを入手してその通りに演奏し、譜面のない曲は耳コピし譜面に起こした。激しく熱くかっこよくなおかつ退廃的な曲をやりたいとロックやメタルを聴き漁り、PanteraやANGRAやThe Yellow Monkeyなどの曲を選んだ。
また和太鼓部と写真部に入部したが、これは自分にとって大きな青春となった。和太鼓部では全国大会に出場し、仲間たちと汗と涙を流しながら練習した。練習のない日の放課後はいつも暗室で写真を焼いて過ごし、賞をもらったりもした。家庭内では社会の常識に染まらないようにする為、口を閉ざし表情を作らず感情を表さぬよう努め、主にドラクエⅢをして過ごした。よく叫んでもいた。また、両親に自分が生き生きしている姿や幸せそうな姿を見られる事を極端にこばんだ。「愛されていない・思い通りにならない」といつからか判断し、報復しようと考えた為だと推測する。これが正しければ、子供の頃の自分にとって愛される事がこれほどまでに当たり前だったのかと驚く。しかし愛されていなかった訳ではないという理由も物的証拠も簡単には見つかる。
部活以外の学校生活では友人のりおちゃんを親と思い依存していた。からかってちょっかいを出して嫌がられると「私の事が嫌いなんだ!」と大騒ぎして泣き叫んでしつこくつきまとうといったような事を繰り返していた。りおちゃんは菩薩のような人で、いつもあまり動じずに一緒に居てくれた。りおちゃんが結婚する際にも「私のことが嫌いなんだ」とねちっこく絡み、今でも旦那さんには警戒されているが応援してくれてもいる。
バンドでも和太鼓部でもオリジナル曲をやりたいと思い作ってみたが、自己肯定できずにすぐにボツにして発表する事はなかった。太鼓にのめり込み、自分にとって一番生き生きした楽しい瞬間は太鼓を打っている時だったので、太鼓で生きていこうと思うようになる。大学の進路を決める際、太鼓のオリジナル曲を作ろうと思いやってみたがうまくできなかったので、作曲学科を志望しようと思い立つ。
音大作曲学科受験に必須の和声学を習い始め、教科書と先生の言うとおりに真面目に勉強するが、たくさんの禁止事項を守り作る4声体が何なのか何の意味があるのか分からず、音楽的に身についた事は一つもなかったが、和声課題を解く事は出来るようになったので、無事に作曲学科へ入学した。同時に和声が出来ないというコンプレックスも身についた。最近改めて和声の教科書を通読してみたが、学校で教えるための決め事を作るのもなかなか大変だったのかもしれない事、それと目的が見えなくなりやすい日本の西洋音楽の教育の現場において、和声の教科書を作るという一大作業がどれだけ執筆陣の生きる糧と自己の確立に繋がったかという事へ、思いを馳せた。
太鼓がやりたくて大学に入った私にとって、複合陽旋法とかメシアンの旋法とか12音技法とか対位法とか水琴窟とかはよく分からず、学校に対しては相変わらずクサクサした態度を取り、暗室に籠もりに写真学科に潜入し展示を行ったりもした。
一方大学で知り合った友人達はかけがえのない財産となった。彼らの音楽的な見識の深さを知り驚き、自分は何も知らなかったとコンプレックスを強めもしたが、一緒に過ごしながら音楽以外の事も含め様々な事を教えてもらった。なんでもネガティブに受け取る私にも関わらず、彼らは皆私を肯定し愛情をくれた。自分で常識を染み込ませないように努めてきたくせに、いろいろな人にいろいろな場所で何度も怒られるという経験を繰り返していた私は「自分は常識がない・教育を受けなければいけない」という観念を保持していた。同級生のたっちーと利害関係が一致し、端から教えを請うた。「こういう事があった、どうすればいい?」と泣きながら電話をすると、哲学が好きな彼はたくさんの文字数で答えてくれたがほとんどがちんぷんかんぷんだった。しかし懲りずによく電話をした。彼にとっては遊びでもあったが、麻雀を覚える事・パソコンで何かやる事・その都度の音楽的な議題を理解する事などをよく強要され「嫌われたくない、遊んでほしい」の一心で課題を克服した。今思えば上質な教育を受けた。
とくちゃんとも兄弟のようによく遊んだ。彼が愛するクラシック・現代音楽の話や技法の話や今やってる事、試している事、感じた事、考えた事をたくさん話してくれた。私が曲を作るとよく見てもらい、譜面の書き方やFinaleの使い方など丁寧に教えてもらった。とくちゃんはいつでも私を全肯定してくれたが、誰に対しても態度を変えない媚びない確立した在り方を冷たさに感じてしまう時もあり、「好いたら嫌われる」いう観念を保持していた私は混乱し怖くなって逃げた事もあった。ワンクッションあったがその後もよく遊び、たっちーと3人でもよく飲みに行ったりして楽しかった。
私は主にこの2人からそれまで知らなかったクラシック音楽や現代音楽の事を学び、よく聞くようになった。特にSteveReichやJohnCage、TerryRileyのように、五線譜を使用せずルールや法則を作って曲を作るにはどうすればいいのか、という事に興味を持ち始めた。SteveReichみたいに太鼓アンサンブルを作って実験しながら作るみたいな事を出来たら面白そうだとも思った。LouHarrisonがやっている方向性も自分と近い物があるのではないかと思いよく聴いた。
学校の授業では山岡先生のオーケストラが最も楽しかった。自分にとって初めて演奏したオケ曲であるMahlerの3番本番中に居眠りしたりもしたが、たくさんの楽器に囲まれいつもワクワクした。当時は管楽器の知識がゼロだったので、あの笛はあんな音が出るんだ、この音はどの楽器が出している?「ぱうけん!」って何?「ぐらんかっさ!」ってどれ?などといつもキョロキョロしていた。各奏者のところへ行き質問責めにしたりもした。なかでも「春の祭典」の授業はとても印象に残っている。最初の方のバスクラは「はりらはりらほー」と聞くたびに思い返すし、散々聴いた「いちくに!」ってどこだ?ここか!と思ったり、5連符3連符は「池袋目白」と懐かしく思う。今スコアを見ながら曲を聞くと怖い物知らずで恐ろしいが。
バイオリンの練習もよくしていた。バイオリンの井上先生のレッスンは濃く身のあるもので感動した。「演奏の実現が困難なコンチェルトを練習して何の意味がある、それにピアノ編曲伴奏は嫌だ」と思っていたのでお願いしてソナタばっかり弾かせてもらった。出来る出来ないは置いて、好きな曲であるBrahmsの1番やProkofievの2番などを弾いた。散々練習したのに朝起きられず、試験に遅刻して受けられなかったりした事もあったし、レッスンもよく寝坊した。
太鼓は変わらず大好きで、打楽器部屋によく出入りして楽器や譜面をいじったり、打楽器科の学生を質問責めにしたり遊んでもらったり教えてもらったりしに行った。学校の単位をもらうために作曲しなければいけない事になったため、年に2度は曲を作り、太鼓とピアノの曲やパーカッションの曲やオケの曲を作ったりした。おっきーに頼まれて映画の曲を作った事もあった。私はその頃創作行為は苦悩しながらでないと行えず、仕上がりが遅くなってしまいとても悪い事をした。たまたま交際範囲に私が居たので頼んでくれたのだが、思えばこれが初仕事だったろうか。彼は人間の些細な言動を愉快で面白い喜劇的な目線で見、いつもそれを探していた。根底にはいつも愛があり、最後は心が暖かくなるような作品を作っていた。彼はマリンバ弾きののんちゃんに会いに来ていた。のんちゃんは私が大学に入ったばかりで友達が居ない時、初めて一緒にお昼を食べようと声をかけてくれた友人で大好きだった。大学に入って初めて作った曲は、のんちゃんとその周りの仲良くしてくれた友人らと演奏した。私は皆に好かれて人気者ののんちゃんが羨ましく、彼女がやっている音楽活動は私のやりたい事の一つの正解の形のように思え、自分と比較しよく嫉妬をしていた。大好きなのんちゃんに嫉妬を抱く度に、こんな自分は酷い最低だと責め、一緒にいる事が辛くもあった。しかし今思えばそれはありがたい事で、私が本当にやりたい事をのんちゃんは見せてくれていたのだと思い出す。その後自分を教育する為の修行の道に進んでしまったが「こうなりたい憧れの姿」と思い込んだ邦楽界の先輩などに対しては、嫉妬の感情は持たなかった。
太鼓は大学に入ると打つところがなくなっていたので、どこで太鼓を打っていこうかと、主に都内の和太鼓グループの演奏会とワークショップに端から行きまくった。結果一つもなかった。和太鼓文化の歴史・成り立ち・詳細に関しては1999年5月発行の「たいころじい第17巻特集林英哲」に詳しく書いてある。誰かが最近作った創作曲の打ち手になる事は私のやりたい事ではなかったし、民俗芸能の集団の中に志願し入る事も、各土地で生まれ育っていない、土地の文化を持っていない自分にとっては違う事だった。
和太鼓の中にはなかったから世界の太鼓はどうだろうと、打楽器を中心とした民族音楽を聴く事にのめりこんだ。小泉文夫先生の著作を読んだりCDを聴いたりし、影響を受け学びを得た。また小沢昭一氏の放浪芸シリーズにも感銘を受けた。小泉先生の著作に書いてあった著作権の話と、強弱の表記でmpとmfの間の普通の「m」ってあってもいいよね、という話に共感した事を覚えている。また、歌舞伎を見に行ったりもし「あの左側の箱の中楽しそう!どうなってるんだろう、入りたい!」と思ったがツテもないし世襲制のようだしまあ無理だろうな、と思った。そんな流れで大学4年の時に長唄研究会に入部し三味線を始めた。
大学卒業後、入りたい太鼓グループは見つからなかったし、行く先が分からず、バイトしたり巡礼したり滝に打たれたりサバールやタブラなどの単発ワークショップに行ってみたりし、とりあえず興味のある事を全部やってみようと、三味線とジャワガムランと杖鼓と江戸里神楽とお茶を習う事にした。2、3年くらい習い事とバイトの生活を続けるが、2000年あたりに参加した鼓童塾W.S.の時の楽しさを思い起こし、佐渡へ研修生の試験を受けに行った。鼓童塾は自分が参加したW.S.の中で最も楽しくワクワクした思い出だった。佐渡汽船の船着き場で出迎えの太鼓が聞こえてきてもう興奮したし、帰りは見送りの太鼓を聞きながら帰りたくないと思った。
しかし自分に団体行動が出来るとは思えず、打ち手になりたいのかもはっきりしておらず、案の定落ちた。が、帰りのバスの中でNHK邦楽技能者育成会という邦楽を学べる学校があるらしいという話を聞き、育成会事務局に電話して試験について問い合わせた。歌舞伎とかの太鼓をやりたいのだが、やった事がなくても受けられるかと聞くと受けられないというので、その時やっていた三味線で受験し通う事になった。
邦楽の知識はまるでなかったので全く知らない世界だった。隣の席のちひろちゃんに「何の三味線?」と聞くと「箏曲の三味線だ」と言うので「なんでおことなのに三味線なの?地唄ってなに?」という状態だった。それに対して楽典やソルフェージュ等の授業は自分にとってもう散々やった事だったので、レベルが低く感じ寝ていた。そのうちに先生に目をつけられ問題児と認識され、やめるのやめないの落とす落とさないの話になってきたので、三味線の猛練習を始めた。素人に毛の生えたレベルだったので、ちひろちゃんに分からない事を端から教えてもらいお稽古もしてもらった。周りの仲間もいろいろ教えてくれ手伝ってくれ応援してくれた。
授業は雅楽や声明や長唄や能楽などがあり、興味があって知らない世界の事ばかりで面白かった。なかでも私が過去に感銘を受けた愛聴CD「ワールドミュージックライブラリー韓国のシナウィ合奏-熱情風流」の解説と、小沢昭一氏の放浪芸のビデオの韓国のシャーマンの映像のところで解説をしていた草野先生が日本音楽史の講師である事にはときめいた。草野先生は私を理解し学校内で先生にバッシングされている私を助けてくれようとしてくれた。実技の合奏の時間はなんとも言えず奇異なものに感じた。私の出す音に対して「合わない」と散々言われた。今思えばこの体験はありがたく、ここから音律についての疑問と追求が始まった。
三味線は「サワリ」という機構が一番低い絃(1の糸)についており、他の絃が完全8度や完全5度といった周波数比が単純な音が鳴ると1の糸が振動しノイズが出て楽器が響くようになっている。このノイズを鳴らし、響かせながら演奏するのが三味線という楽器だ。この三味線の音律と私の持っていた絶対音感が合わなかったという事が分かった。なので絶対音感を使わず振動による共鳴を聞き、自分にとっていかに気持ち悪い音程でもそれに合わせて演奏するという訓練をした。
育成会を期に現代邦楽を追求し始め、たくさんの曲を聴いた。伊福部昭の曲と武満徹の「秋庭歌」にはワクワクし美しさを感じた。古典曲を中心にやらない流派の箏曲は、和太鼓業界に似て、邦楽器複数で合奏をするというスタイルが近年の物のため曲があまりない。すごく狭い範囲の社中の誰々の作った曲を必須曲として子供の頃からお箏を習ってきた、という状況が結構ある事を知った。だったら私の作った曲も演奏してくれないかなと思い、育成会修了後同期で集まり演奏会をするというグループ(50期の会)が出来たので、曲を作り演奏してもらった。ちなみに私は修了資格はもらえなかったが最後まで在籍した。50期の会で何が出来るか考える事をきっかけに、現代邦楽に自分なりに相当向き合ったが、奇異に感じる思いは消えなかった。少なくとも、箏・三味線・尺八を中心とした現代邦楽の楽器編成で、平均律や純正律で演奏される事を想定して作られた曲を演奏する事は、邦楽器が生き生きする音楽を奏でる事ではないのでないか、と考えた。ならば試す価値がある事として、ガムランのslendro音階のような五等分平均律や、pelog音階の様な七等分?平均律などで演奏してみるのはどうだろうと考えた。50期の会の演奏会として出来ないかと「アジアの音楽を邦楽器で演奏してみる」という内容の企画書を書いて世田谷区の芸術アワード飛翔の音楽部門に応募し、助成金をもらい演奏会を開催する事ができた。
全て新曲の演奏で、大学の恩師に紹介してもらった作曲科の学生と、とくちゃんを始め作曲家の友人に手伝ってもらい、手分けをして譜起こしし、音律の測定を頼み、それを演奏してもらう為に皆に説明したりと、相当に大変だった。ガムランの「Manis」という曲は東京音楽大学民俗音楽研究所の本、2002年度「伝統と創造」に載っている楽譜を使った。ガムランのまり子先生には東京音大のGongを使わせて頂いたり、指導してくださったりと大変お世話になった。「事件だ」と喜び応援してくださった。50期の会幹部仲間との会議では、何度話しても言ってることが分からないと言われ続けた事が辛く、だんだん自分でもよく分からなくなり、時間も奪われた。また物理的にもゼエハアしていて、バセドウ病との診断もされた。幼い頃から習ってきたクラシック音楽教育のよくあるパターンの為と、大学で本当に音楽を好きで研鑽している優秀な友人に出会った事で、私は自分に自信を持てた事はなかった。邦楽は習得すべき事に音楽以外の礼節も多く含むようで、仲間に比べ自分にはそれが欠けている事を自覚し、自分以外の仲間の意見を尊重するようにした。礼節が分からなかった事もあり、私は仲間の事を自分と同じくらい音楽的見識があると誤解し、自分を責めてしまった。これらの出来事のお陰で、自分が誰よりも真摯に音楽を追求し研鑽してきた事を知ったし、その後に自分を認め始めるきっかけにもなった。
50期の会では五線譜を書いて演奏者に演奏してもらうという機会を得、何回かやり取りをした。私は五線譜を書く時、奏者が極力迷う事がないように細かく指示を書くようにしていたし、それに時間を費やした。しかし書く方にも読む方にも二度手間だった。彼らにとって本分でない五線譜で伝達する必要があるのかを疑問に思ったし、ただでさえ時間がかかる五線譜を書くことにも疲れを覚えた。
この後も50期の会は一年に一回演奏会を続けた。ここで出来る事、したい事、やれる事は全部やってみようと、長唄のタテ三味線をしてみたり、杖鼓と締太鼓の曲を作り演奏したり、ちひろちゃんのお父さんの龍笛と和太鼓の曲を演奏したりした。かねてより即興演奏方法に興味があった私は、JohnZornが作ったCobraを演奏してみたく、初対面で巻上さんの所に行き教えを請うた。お稽古代を支払い、口頭で許可を貰い演奏した。50期の会は自然消滅したが、現代邦楽に関してやり残した事はないと思っているし、本当にいろいろ試してみる事が出来、感謝している。
世田谷区での公演が終わり疲れ果てていた頃、役者の友人が人を集め声をかけてくれ、主に4人で行う韓国の太鼓アンサンブルの「サムルノリ」をやる事になり、何回も練習を重ねテサスプノリという大会に出場した。役者の友人が意欲的に計画的に練習をナビゲートしてくれ、舞踊家のお姉さんが賢くしなやかで強くて淡々としていた(忙しい中やっていた)お陰だが、ご褒美のように楽しく、久しぶりに青春のような時間だった。
練習の帰りに、役者の友人といつもいろいろな話をたくさんした。様々にネガティブに捉える私を、ワクワクキラキラした目で見、心から好奇心を持って面白いと思っているようにみえた。人間の感情や憂いのプラス・マイナスも含め全てに興味と愛を持っているような彼らにこの時大きく救われ、今でも愛おしい。私を含めこの時のサムルノリメンバー4人は全員仁子先生に杖鼓を習っていた。先生は舞踊家でもあり、表現とは何か、教えるとは何か、どうしたいのか、どう生きたいかといった事を常に問うて表現していた。私達にも何がやりたいのかと問い続けた。私は先生に何度も問われたにも関わらず、それに向き合わなかった。意味が分からなかった。だが杖鼓を習いながら長いこと側に居た。先生は臆病で寂しがりやなのに、誰に対しても本当の事しか言わず、誰かれ構わず「何がしたい」と問うてよく人が去っていっていた。毎回悲しんでいた。
時間を少し戻すが育成会在学中、太鼓仙人が講師として現れた。私はすかさず太鼓がやりたいと直接言いに行った。育成会後仙人のお稽古場へ通うようになり、そのうち内弟子のようになって、カバン持ちとして仙人の仕事場へ付いて行くようになった。仙人の仕事の現場は、これまで体験した事のない、どこか常に張り詰めていて隙のない許しのない環境で、例えば「誰か突然居なくなって神隠しにあっても全員何も言わずに淡々と現場作業が進む」みたいな空気が漂っていた。なんだか分からず混乱し、恐れを抱き、呼吸が浅くなり、頭もフリーズした。どんな環境に行っても結局比較的のびのび過ごして居た私が、のびのび出来ない、してはいけないと感じる環境だった。言葉で説明するとしたら、神事を行う為の場のような清浄な張り詰めた空気、とでも言えるだろうか。地方(音楽家)や立方(舞踊家)を始め、狂言方・照明・音響・大道具・衣装・顔師・かつら・床山・後見・小道具その他公演に関わるそれぞれの職種の全てが奥が深く重く、日々研鑽し修行が必要で、全員が一流で必死でやっている現場だからだろうか、なんというか常に緊張感に満ちエネルギーが大きい感じの空間だ。劇場はいつも多かれ少なかれこういう空気を纏っている。
私は勝手も、やってる事も起こってる事も全く分からず、怒られ怒鳴られまくっていたが、念願の歌舞伎の左側の部屋の中(=御簾)の太鼓に出会え嬉しかった。仙人はそんな中でいつものびのび生き生き演奏し、予想通り御簾の中はたまにタテノリでロックでグルーヴしていた。仙人の奏でる太鼓は本当に楽しくワクワクさせられ元気をもらった。常に面白く楽しい音楽にしようと、全力で挑む仙人の仕事ぶりに、尊敬し応援したいとファンにもなった。舞台の上ではいつも見事に審神者だった。神事を行う者のような伝統芸能そのものの型となり、個人を超え人間を超えて芸そのものに成っているかのような有り様にいつも圧倒された。また、例えば「部屋を掃除するために水をまきたいからホースを買ってこい」などと言う奇想天外で常軌を逸した愛すべき言動に、勇気と励ましをもらった。方々で常識がないと怒られてきた私にとっては「これでいいのだ」と何か愉快な事件が起きるたびに背中を押してもらえるようだった。
囃子の勉強と練習は続けていたがとても間に合わず、数年は今舞台で何が起きているか分からず怖かった。清浄で恐ろしい現場を前に「とりあえず自分の全てが間違っているから極力自分を信用せず人の言う事を聞き、自分の人権を尊重しないように努め、私は地位が低く底辺で下僕だという自覚を持って現場に行く」という選択しか思いつかなかった。最初の頃は打たせてもらったが、そのうち何も出来ないと演奏させてもらえる事はなくなっていった。たくさんの楽器を目の前にし「私は打っちゃいけないんだ出来ないんだ」と何度も思い再確認する事を重ねていった。たまに打つ事が出来ても、失敗する事が怖くて、実際に失敗した事が多かった。みかねた仙人息子先生は一からお稽古をつけてくれ、仕事でも使ってくれた。
囃子の勉強は「必死で命がけでやらなきゃ覚えなきゃいけない、こんなんじゃだめだ」と考える事の方が忙しかった。「お囃子は楽器がたくさんあって楽しいしすごいし奥が深いし自分にはもうここしかないんだ」と「お囃子は自分には到底出来る様にならない物で、打ってる彼らは雲の上の存在で、私には打つ資格すらない」と自分を認定したり否認したりする事を交互に繰り返し、葛藤を続けた。
ある時仙人に「五線譜で演奏するから手伝ってくれよ」と言われツボ合わせ(リハーサルのリハーサル)に付いて行った。情報量の少ない譜面だった。その譜面をちらっと見ながら仙人が即興で出す音は、譜面に書いてある事よりも面白かった。私は戸惑い何も言えなくなり、この譜面にどう対応すべきかどう演奏すればいいのか思いつかなかった。五線譜という手段に更に疑問を抱き、とりあえず私が譜面の読み書きが出来る云々とかは口に出す事を控え、更に自分は出来ないとの自覚を持ってお付きに努めた。
ある日、仕事の現場でよく一緒になる三味線弾きのアイドルギャル元さんが声をかけてくれ友達になってくれた。この事がきっかけで、これまで張り詰め過ぎていた糸が少し緩み、現場に居る雲の上の皆さんと少しずつ世間話を出来るようになっていった。ギャル元さんは彼氏と共によくご飯に連れて行ってくれご馳走してくれ励ましてくれた。私を応援し心配しどうにかしようと、アメリカに行ってみる事を提案してくれたり、手伝ってと仕事もくれ、ちえさんというカウンセラーも紹介してくれた。ちえさんの所には数回通った。最初は何を言われているか全く分からず「どうせやっぱり私は駄目だという事でしょ?」と思考しようとする私を許してはくれなかった。ちえさんはカウンセラーの一環として「デビューさせてあげたい」とイベントをセッティングしてくれた。
その後もちえさんのお話はなかなか理解できず、様々な自己啓発本やネットのスピリチュアル系サイトを端から読んだり、カウンセリングの際の録音を何度も聞きなおした。ギャル元さんとの共通の友人であるなおちゃんが見かねて手助けしてくれた。なおちゃんは今節丁寧に解説してくれ、それでも分からない私に角度を変えて何度も説明し、根気よく私から話を引き出し聞いてくれ、どうしたらいいかを常に優しい言葉と物言いで答えてくれた。なおちゃんがどれだけ私に愛情をくれたか、私が幸せに生きられるように、友人として私と良い関係を築く為に、どれだけ尽力を注いでくれたかは計り知れない程だった。
寂しがりやで人恋しいなおちゃんはよく私と遊んでくれ、それをいい事に私は次第になおちゃんに依存するようになり、分からない事から分かる事までなんでも相談する様になった。しかし、ある日小さな事がきっかけで「共有できないから友人付き合いを休止しよう」と言われ、私は谷底へ突き落とされた。もしくは愛想をつかされた。なおちゃんは私に対しても私との関係に対しても出来る事は全てやった。一日布団から出ないという日を数日続けもしたが、本を読み本に書いてある通りに実行するという事をし始めた。セドナメソッドやジュリア・キャメロン、エスター&ジェリー・ヒックス、エックハルト・トール、ディーパック・チョプラ、ニール・ドナルド・ウォルシュなどを読んでいった。今でも全部は理解できないが、次第にあの時ああ言っていたのはこういう事かな、とちえさんやなおちゃんや仁子先生の言葉を思い出しながら少しずつ理解していった。私はこれまでどんなに楽しい時でも常に裏に背徳感や罪悪感があり基本的に重く、自分は出来なくて駄目で価値がないと認識していたし、馬鹿にされるかもしれない事と怒られるかもしれない事に常に怯えていた。そういう状態が普通だと思っていたのだが、それがだんだん軽やかになってき始め、行動できるようになっていった。なおちゃんもちえさんも私を怠惰だと言っていた。長い事意味が分からなかったが、人のいう事みんなのいう事組織のいう事を聞き、怒られない様に迷惑をかけない様に言うとおりに生きる事、みんながこうしてるからこうする事、当たり前だからと考えない事、自分にとって幸せなのか問わない事、自分の本音を聞かない事、知ろうとしないで蓋をする事、蓋を開けようとしない事、イキイキ生きようとしない事は全て怠惰なのだとようやく分かった。
また、なおちゃんは本当にやりたい事をやるようにとずっと口を酸っぱくして言ってくれた。「私が本当にやりたい事はお囃子だ、長唄の舞台とかで三味線の前にお囃子さんとして並ぶ、あそこに私は並びたいんだ、それがゴールだ夢だ」と思い込むようにしていた。やりたい事も感じてる事も嘘をつくようだ。自分を調教する事に長年費やし過ぎて、本当の思いになかなか届かなかった。だから常に問うて問うて問い続ける必要があるのか、という事を仁子先生の言動を思い出したりしながら理解した。
私がやりたい事はお囃子だ、の答えを無理矢理正当化するために自主公演で「忠臣蔵の音楽」というライブをした事もあった。自分にとって大きな仕事だった「カルテット忠臣蔵+1」という忠臣蔵を題材とした創作お芝居の音楽を担当した事があり、この為に数ヶ月かけて忠臣蔵の音楽を勉強した。もったいないのでこれを活かせないかと思い自分で企画した。自分でよくここまで勉強し技術も身に着けたと思ったが、これが本当に私がやりたい事だったろうか、と疑問にも思った。これで本当に誰かに何かを与えられるのか?私がすごいって事を、これだけやった、これだけ勉強した、って事をアピールしたいだけではないのか?それをアピールされて相手はどうだろうか、これが私の音楽か?これをやるのが私である必要はあるのか?と思った。ちなみにこの時役者の友人のまきちゃんに演じてもらった。
まきちゃんは、私がかばん持ち中に出会った役者で「伝統芸能って素敵!三味線や太鼓って素敵!かえちゃんかっこいい!なんか一緒にパフォーマンスやりたい!」と声をかけてくれ何度が一緒にやった。まきちゃんは「お客様に喜びや感動やご飯なども与えられて、皆で楽しめて幸せを共有できるような場が作りたい、公演がやりたい」と自分で台本を書いていた。彼女は自分の体験を元に感じた事考えた事を織り交ぜストーリーにし、一人芝居として演じた。これがどれだけすごい事か、どれだけ神聖で尊い事かとよく思い出す。彼女の一人芝居は夢のような時間だった。私はその音楽を担当した。私は見守り勇気づけ励ます役割だと思っていたしそれは出来ていたと思う。何より私が勇気と励ましをたくさんもらった。まきちゃんとのパフォーマンスもきっかけとなり、数種類の楽器をたくさん持ち込んで並べて様々な音を出し、劇伴を一人で生演奏するという事が自分の出来るスタイルの一つとなっていったし、面白いと喜ばれた。
その頃知り合った演出家のツテでお話を頂き、ベテラン女優さんの一人芝居の音楽を担当した事もあった。自分にとって大きな自信にもなったし、すごいと言われ褒めてもらえて喜んでもらえて嬉しかった。また太鼓仙人の側にずっと居て自分が多くを学べていた事と、それが実際に打てる事と通用する事が分かった。自分の出す音で場を演出する事も出来るんだ、私の解釈・意図通りに役者に動いてもらう事も出来るんだと知り、楽しかったし大きなやりがいだった。その後にした舞台のカルテット忠臣蔵の時には、私の演奏する音で表した意図に対し役者さんから返事が返ってきて会話が出来た。会話を交わさずに会話が出来る事はとても嬉しかったし幸せな事だと知った。
この流れで美人講談師からもお仕事を頂き、本物の四谷の於岩稲荷で四谷怪談の講談の音楽を演奏させて頂いた。お化けが怖かったが、海洋堂の妖怪根付全種コンプリートして愛でていた私にとっては誇らしく嬉しい仕事だった。美人講談師の芸も素晴らしかった。又狂言師の方ともお仕事ができ、イケメンとは側に居るだけでガラスのように繊細な腐女子の心を癒やしてくれる存在で、腰が砕け歩行も蕩け、久しぶりに女子の自分も居た事を思い出させてもらったご褒美のような一時だった。これら一連の流れのお仕事で出会った皆さまそれぞれは全員がプロフェッショナルで、どうせ私は何もできないとか言っている暇はなかったし、そんな事は失礼にあたった。
このスタイルで世田谷区で行った50期の会公演の時に司会を頼んだ弁士さんと約10年ぶりに会い、無声映画の公演もした。彼は映画を心から愛していて「日本の無声映画に和楽器で音楽を付けるのは当たり前なはずなのに付いてない、付けたい」と当時言っていた。自分に出来そうな事だしやってみたいとは思ったが、私はこの時もうほとほと疲れ果てていたし学びも足りていなかったので私との実現はなかった。私の方ではやっと時が満ち、彼の願いを叶える事と自分のやってみたい事へのリベンジがようやく出来た。彼の中ではすでに叶っていた事なのは知っていたが、これほど正確に楽しく音が付いた事は初めての事なのではないかと思った。作品に音を付ける作業の中で、トーキー以前の無声映画の上映がリアルタイムで行われていた頃は、本物のお囃子さんや三味線弾きが映画の音楽を付けたりした事もあったんじゃないかと推測したがどうなんだろうか。
そんな事よりこの時奇跡が起きたというかなんとも言えない不思議な感覚を味わった。100年くらい前の映像なのに、映像の女優さんが生き生きしだし、今起きている事かのようにコミュニケーションが出来たような瞬間があり、うわーと思い感極まりながら演奏した。感動というかこみ上げるというか時空を超えた様な放心する様ななんともいえない感覚だった。公演の後2日間くらいぼーっとして何も手がつかなく、ずっと幸せが続くような、にやにやするような、なんなんだろうこれはという日を過ごした。
この仕事は私にとっては自分がお世話になった方皆様に恩返しが出来る一石三鳥の現場だった。美味しいご飯を食べさせてくれるスペースで、そこの方々と共に企画し実現出来たが「喜んで欲しい、御礼を伝えたい」と思ってた方たちは見に来てはくれなかったし、私の思いも伝えられなかった。しかし悔いのない演奏が出来たので悔いはなかった。
これら一連の仕事で身につけた楽器をたくさん並べて音を付け劇伴音楽を一人で演奏するというスタイルは、私の得意な事だし面白いし喜んでもらえるし、演者さんを励ます事も応援する事もより魅力的に魅せる事も出来るし「これでやっていこう、誰でも囃します!囃していきます!」と一時は思っていた。しかし簡単に「囃します」と言えない体験もしてしまった。
お囃子さんの仕事内容は、演奏以外の運転・荷積み・楽器運搬・梱包作業・楽器組み立て・セッティング等の肉体労働が多くを占めている。だから太鼓仙人のかばん持ちの際も、演奏しなくてもやる事があり忙しい。ある公演が終わったあと、私の片付け作業が照明さんがぶら下がった電気を全部下ろして所定の位置にしまうまでよりも遅かった。一人で片付けていたら、あまりにも大変なのと周りの方に助けてもらえないのと終わらないのとで、悲しくなってきてしまった。
演奏家として光が当たった自分と今までの下僕な自分とが混在するようだった。
下僕の自分が演奏以外の事を全部するのが当たり前と修行環境の中で刷り込まれていたから、全部一人でやったが、何でも一人でやろうとすると作業の大変さに恨み辛みが出てきてしまい、態度にも出てしまい現場の空気も悪くしてしまう。演奏以外の作業に疲れてしまい演奏に支障も出る。公演の成功にも影響が出てしまうし依頼主に迷惑をかけてしまう。結果、簡単になんでも囃しますとは言えない事が分かった。この体験をした後しばらくは悲しくてどうしようもなく「そもそも私はいろいろな人の労力を理解して感謝する事ができているのだろうか」とスーパーで売っている真空パックの剥き銀杏を見てその労力を思慮って涙を流したりしていた。
剥き銀杏に視界を滲ませていた頃お茶のお稽古に行ったら、お茶の先生に公演のお祝いを頂いた。自分の思いに気付いてもらえ救われたような錯覚に陥り、嬉しくて感極まってしまった。「伝統芸能の人にはやっぱり気付いてもらえるんだ、伝統芸能最高!バンザイ!」と思った。そういえばと、灰を洗う時期になるといつも先生の手の皮がベロベロにむけているのを思い出し、剥き銀杏をはるかに超える茶人の計り知れない労力を想像し、自分の労力と重ねて同情したくなった。
先生に何か感謝を表したいし公演にも見に来て欲しいと思った。しかし劇場にご足労頂くのは申し訳ないので、お茶のお稽古場から徒歩10秒で行ける場所で、お稽古が終わった後に来れる時間に合わせ、先程述べた無声映画の会を企画した。演目も先生がご興味あるに違いない物を選んだ。これが自分が考えた、弁士さんの願いを叶える、に加えた一石三鳥だった。しかし悲しみは悲しみを産むのか、先生もお稽古仲間の皆様も誰も見に来てはくれなかったし、誘う事すら出来なかった。
お茶のお稽古には20年弱通った。分からない事だらけだったが毎回楽しく、気付きを得る事も多かった。畳に平気で土足で踏み入れそうな私に0から、むしろマイナスから根気よく丁寧に長いことお稽古して頂いた。お稽古場はその週毎に嗜好を凝らし楽しみながら毎回どれだけという程、命がけかと思う程、おしゃれだった。
お稽古場はいつ行っても太鼓仙人の仕事現場のように張り詰めていて清浄だった。清浄さとはどうやって出来るのだろうか?かける思いや準備の労力などのその場に関する様々な情報の集合体がエネルギーとして現れるのだろうか、それが大きければ大きいほど清浄値も高いのだろうか。
公演を行った場所である先生のお隣のお家は、愉快で楽しくとてもいい方達だったし本当によくして頂いた。しかし今ご存命の方たちは、先生のお稽古場にある張り詰めた清浄さを体感した事がないか知らないように見えた。まるで仕組まれているかのような運命に思いを馳せてしまった。
私は伝統芸能に仕組まれた学びのカリキュラムは優れていると言えるように思う。一番の特出すべき点は、例えば名取制度にしても、いろいろな事においての前提が個人ではなく全体である事だ。それからやることや学ぶ事が多い事、とにかく動かなればならない事だ。ほとんどの和楽器が、オーボエがリードを削るよりもしなければならない作業が多いと思う。例えば鼓はすぐには鳴ってくれない楽器で、メラして(湿らす)みたり、調べを直してみたり、大抵の人がずっといじり続けている。いじりたくていじっているよりはいじらざるを得ない。
とある面白い舞台を見たことがあった。私生活でも誰よりも好んで鼓をいじり続けている先輩が、タテ鼓を打つという長唄の演奏会があった。タテ鼓というと大役で、長唄は大体15人で演奏するのだが、その演奏者15人全員をタテ三味線と一緒に引っ張るという指揮者的な役割がある。通常ベテランがタテ鼓を演奏するので、若手である先輩はこの演奏に緊張していたし思い入れも深かった。幕が明き、客席から聴いている分にはほとんど違いが分からなかったが、本人的にベストな鼓の音が出なかったようだった。「鼓が鳴らない」という絶望を抱き始め、打つ度にその絶望を深めていき、骨と皮がパンツだけ履いている血だらけのゾンビのような有様になっていった。その悲しみと絶望が他の14人に「鼓が鳴らないんだね」と同情され伝染し始め、全員がおっかなびっくり演奏するみたいなバイオハザード状態のようになっていった。結果全員で一つの目標に向かい、全員が「鼓が鳴らない」を共有し、広がっていき大きくなり、ブラックメタルのような世界観になっていき、熱量の高いおどろおどろしい状態に空間が染まった。タテ鼓として素晴らしい役目を果たした舞台として大成功だったように思う。
これは私が見た全体が一つになった舞台の一例だが、こういう舞台はいつでも見られるわけではない。これが起きた時の長唄演奏のエネルギーはオーケストラと同じようにとても大きく興奮するし心を打たれる。ここに向かう事を想定されたカリキュラムが元々仕組まれている環境で、それぞれが鍛錬を積んでいると言えるとも思う。一つになれる時のきっかけや入り口は時と場合によって様々あるように思うが、主観ではあるだろうが個人の不成功がきっかけだった事が面白かった。この時鼓が鳴っていたらこれほど面白い舞台にはなっていなかったかもしれない。
三味線のお稽古には毎週火曜日に長い事通っていた。先生は口数は多くなく、誰に対しても変わらずいつも舞台上と同じ演奏で淡々とお稽古してくれた。お稽古場の皆様は皆先生に惚れて集まった方で、歌舞伎が大好きで博識な方が多かった。例えば「おかるかんぺい」と聞き「どっからどこまでが何の名前なんですか?」という私の問いに、先生を含め皆様が寄ってたかって教えてくれた。供奴の冒頭の歌詞「してこいな」に対して「遊女さんと吉原でシて来てくださいって事ですよね?」と問うと、次の週には皆様が赤線入の長唄解説や広辞苑のコピーを持ってきてくれるなどというお稽古を先生が亡くなる数ヶ月前まで毎週続けた。お稽古は団体稽古で隣の方の音程とリズムに命がけで合わせるという自主訓練をほとんどはしていたが、たまに先生と二人で弾くといつもジェットコースターに乗っけてもらえるようで興奮した。合わせるという事は自分を殺し相手に合わせるという事ではなく、タテに付いていくけど愛を持って応援し理解し肯定し、時には励まし助け合い、そうするとタテもワキも溶け合い一つになって大きくなるという事なんだなと思うようなワクワクする体験を何回かした。
先日自分の教室の発表会を開き、共にお稽古させて頂いた仲間の皆様をお客様としてお呼びした。何人か来てくださり聴いてくださり、まるで同窓会のようになった。私達の演奏を心から楽しそうに聴いてくださった。皆様は歌舞伎と長唄と三味線を愛し、お勤めをしながら人生の半生を三味線と三味線の先生と共に過ごした。その思いと愛が表情とお姿から溢れ出ている様を目にし、私の方が感極まってしまった。
私のBL好き噂が届いた事がきっかけでギャル元さんの所で一緒に三味線を弾いている観音姉さまとお近づきになる事も出来た。観音姉さまは舞踊家でも唄方でもあり芸能のお家で育った方で、劇場に居たり携わっているほとんど全ての職種の労力と手間を知り理解し、見えない所でも見える所でも常に皆の事を思いやっている。また様々な所に出向いてはそこで出会った人を幸せにする為にいつも駆けずり回っているような人だ。私の事もどうにかしないと、と自腹を切ってくれた事もあるだろう、仕事をくれたし、たくさん話をしてくれ励ましてくれた。そのうちに彼女と、日本舞踊を踊る為に生まれてきたような舞踊家を中心に社中っぽいチームが自然と出来、そこに入る事が出来た。心から芸を愛する人の集まりの中に入れ大変光栄で、ずっと願ってきたようなお仕事が彼女のお陰で出来ている。
姉さまのツテで芸者さんとも仕事をするようになった。芸者さんは見ているとお一人お一人の姿と有様が人生を物語っているようで、人間くさく面白く可愛く、少し悲しく繊細で愛おしい。私は愛撫するように包みこむように演奏したくなる。また常に美しいものに囲まれていて、着物がどうとかかんざしがどうかを入念に確かめ、より美しくする為に床山さんや着物屋さんなどにすぐ電話して色がどうのだから取り替えてなどとやっている。それと美味しいものをよく知っていてたくさん食べさせて頂いた。芸者さんは美しさと文化の伝道師でもあるのだなと思い、一緒に居るだけでたくさん学ばせて頂いている。
杖鼓を習っていた御縁で、在日韓国人の伝統芸能演奏家・舞踊家との関わりもあった。元々シナウィ合奏に興味があった事もありゆなさまに伴奏杖鼓を習った。彼女の演奏の伴奏もさせて頂いた。彼女はいつも愛に溢れて美しく聡明な女性であった。彼女の伽耶琴散調は、まるでお花が舞ってきらきらした音が飛び跳ねるかのような可愛く素敵な演奏で幸せをもらえた。服従癖が付いていた私には彼女の暖かく優しさに満ちた強制力が心地よく、公演の手伝いもよくし、御礼にと家族ぐるみでご馳走を接待してくれた。韓国での公演にも連れて行ってもらい、三味線で韓国の音楽家達と一緒に朝鮮の民謡を演奏した。これはゆなさまの発案でゆなさまのお陰なのだが、全然違和感がなく面白かった。三味線は他の楽器、特に西洋楽器と合わせると雑音になる事が多いのだが、韓国の民俗楽器とは溶けたように感じた。いつかまたご一緒したい。大変だろうがシナウィ合奏にも参加してみたい。またその先にも出来る事がありそうだとも思っている。
日本で活動している韓国(朝鮮)の伝統芸能音楽家のベースは恐らく朝鮮学校にある事が多いようで、学校での指導方法は西洋音楽ベースなのだろうと推測する。絶対音感を持っている人も多いように見える。民俗楽器で西洋音楽の手法や手段を用い伝統曲をベースにしたものを演奏するというのは、日本の現代邦楽によく似ているように思うが、大きく違う点は楽器が改良されているという点だ。だから西洋音楽臭がより強いし多くの手法が可能なようだ。端的に言うと三味線で五線譜で書かれた何かを演奏する時ほどの絶望感はなく、それはそれとして音楽的に質も高く面白い部分も多く、新しい芸能として成り立っているように思う。しかし同時にその音楽が元来持つ強さや思いや魂が減るという事は大きな憂いでもある。
韓国(朝鮮)の伝統芸能に心を動かされより追求したいと思った芸人は、韓国で先生を見つけ習いに行くといった事が多くあるようだ。「かばんもち」とは韓国語にもあるのか何かで若手の韓国伝統芸能音楽家と話した時に簡単に通じ、私は言葉は分からないのに「かばんもちチング」となんとなく分かりあえた事があった。韓国での伝統芸能の修行の有様は、私が太鼓仙人の所で体験したような業界のそれと近そうだと感じた。
クラシック業界やそれに類似する業界では「音楽で食っていくにはどうするか」という議題にどこかでぶち当たるように思う。つまり「音楽では食っていけない」という前提が何となく存在している。音楽を仕事とする事に罪悪感と疑問を抱いてしまう環境が整っているように感じる。代替手段として教育者を選ぶ例も多いだろう。音楽で食えないという前提があまりない古典芸能業界と比較すると、考え方の一番の違いに「個」「個人」が前提という所にあるように思うがどうだろう。例えば「私の音楽」「私流」「私らしく」こういった考え方は古典芸能ではまず排除される。例えば「食えるのは一握りでスターにならないと食えない。」といったセリフもよく聞いた。しかし一握りのスターにも「個」は見えにくい例が多いように思う。太鼓仙人と同じ審神者に見える。例えばピアノのアンドラーシュ・シフさんなどもそう見える。どんな舞台でも本当に心を動かされる時に立っている演者の中には「私」は存在せず溶けているように思う。もしくは「私」を演出し作ってそれを入り口にしている様に見える。古典芸能でもクラシックでも何でも目的地は同じなようだ。
「音楽家の仕事の最終目的は感動させ共振を起こす事だ」と定義するのはどうだろうか。目的がはっきりし安心を得られないだろうか。また日々の行動や他人との接し方、公演の打ち方が変わってこないだろうか。感動とまでいかなくても、琴線に触れる・共感を与える・元気や勇気や励ましを与える事が本来の音楽家の仕事ではないだろうか。たまたま過去に生で見て更にオンラインで見たのだが、例えばサマソニでRadioheadがCreepやってくれて「うわー!!」てなった、ああいうのの事だ。これにより健康も幸せも与えられるし免疫力を上げる事も出来る。音楽家は医療従事者でもあるしカウンセラーやセラピストでもあるし祈祷師でもあり政治家でもアンパンマンでもあるのだと思う。必ずしもではないかもしれないが、この目的の為に、自分の中にある隠したい事・見たくない事に焦点を当てる事は、音楽家が仕事して取り組まねばならない事だと私は認識するようになった。舞台で隠せる事は何もない。しんどくてのたうちまわる時もあるが仕方がない。諦めるしかない。
太鼓仙人の真似でもあるが、私には運動や日記などいくつか日課がある。それら全ては結局、ざっくりいうと自分に無償の愛を注ぐ事に日々取り組んでいるとも言える。無償の愛とはどういうものか模索の最中だが、自分にとって分かりやすい過去の例を探りそれを手がかりに実行してみると、どうも「好きだ、愛してる」云々と言葉に出したり思ったりする所と出どころが違うように思う。この出どころは舞台上で体感したり舞台を見て感じたりするところと同じように思う。多分ここに少しでも触れると感動が起こる。感動じゃなくても琴線に触れたり心が揺れたり感情が揺さぶられたりと何かしらが動く。「少し」でもこれが起こるという事はもしかしたら相当大きいのかもしれない。この出どころに触れるお手伝いをする事が音楽家の、芸人の仕事だと思う。
もしかしたら他のどんな事よりも人々の健康増進と世界の平和に役立つ事なのではないだろうか。それと「感動させ共振を起こす事」は誰にでも出来ることで誰もに備わっている事のようだし、上手い下手も関係ないようだ。
中高時代からの友人にダンサーのひづるちゃんがいる。彼女は日々真摯に謙虚に踊りを追求している。ひづるちゃんは私が暗黒な時もそうじゃない時も「太鼓打って」と誘ってくれた。彼女は子供向けのダンス教室を主催しており、練習に定期的に連れて行ってくれ「発表会を手伝って」と仕事をくれた。連れて行ってくれる現場は奇跡のようにいつもキラキラしていた。発表会でも練習でも子どもたちはまるで神々のようで、私は行く度に力や励ましをもらった。子どもたちはただ元気に好き放題駆けずり回って伸び伸びと楽しく遊んでいるともいえるのだが、それが神聖で、言葉に表す事がもったいなくなるような一時を毎回過ごせる。ひづるちゃんの教室の子供達を見ていると、愛する事と愛される事と表現する事は元々人間に備わって生まれてきているようだ。だから元々は誰しもが、例えば足を一歩踏み出しただけでも感動させる事が出来るように思う。大人になるという事はそれらを随分と制限するようになるという事なのかもしれない。だから制限を解く必要が出てくるのだと思う。彼女のお稽古は子供達が元々持っている物を誘導したり引き出したり膨らませたりし、舞台の上で作品として見る事の出来る形に整える、という作業に私には見える。これが最高の教育の形なのではないかと近くで見て学ばせてもらった。
また、ギターの夫とバイオリンの妻とで音楽教室を経営している大学時代からの友人が居るのだが、毎年夏の合宿に参加させて頂いている。彼らの教室も自分にとっての理想だ。夫には信念が、妻には確信があり、美と楽しさに対する追求を家族友人ぐるみで常にしている。生徒さんも本当に皆心から楽しそうで、こんな王国があってそこに住めたらどんなに幸せだろうかと毎年思う。
ひづるちゃんはライブをやろうと誘ってもくれ、尺八のなべさんと3人でライブをした事もあった。テーマは「山を興す」に決まった。私はそれに対し「山だったらこんなネタがあるよ」と歌舞伎の情景描写音の山ヲロシというパターンや長唄石橋という曲のひとフレーズを聞かせてみたりした。「そういうのじゃなくてかえちゃんの中にある山の音は?」と言われた。彼女の問いは今でも私の中の一つの答えとなっている。私は元来はひづるちゃんとは同業者だと思うが随分と回り道をしてきた。彼女の提議してくれた質問の回答になるような活動を今後やっていくだろう。
私はこれまで長いこと学ぶ事をメインにインプットし続けてきた。たくさんの先生に指導を受けてきた。特に太鼓仙人の太鼓に惹かれ、仙人の演奏の為に舞台を整える事がいつのまにかメインになってきてしまってもいた。強く魅力的な長いものに巻かれる事は光栄で学びもあったし力ももらえたが、自分の使命となる仕事を果たしていかないと何のために生きているのか何のために研鑽してきたのかが分からない。指導を受けるという事は、自分にとっては指導を受ける必要がある自分に成る事でもあり、段々それがしんどくもなってきた。学び途中の段階でもあるが、自分が作る事と表現する事に主眼を起き、アウトプットする方をメインにしていきたい。これまでの演奏経験で、私は共に演じている人の魅力を引き出す事や背中を押す事が出来るという手応えがあった。また場の空気を変えたり作ったりする事も出来た。雪を降らしたり風を吹かせたり川の水面を光らせる事も出来た。こういう機会を増やしたいしもっと深めていきたい。その為の区切りとしてもこの文章を書いた。
2020年 夏